
詩集という創作物
ダイホンブン仲間、カモシカ書店の岩尾店主のせいで(おかげで)、僕の読書人生が狂わされた(変化が訪れた)。というのも数カ月前、後書きに感銘を受けたと内堀弘著「ボン書店の幻」を薦められたからだ。ボン書店とは1932(昭和7)年から数年、極めてセンスの良い詩集を少部数発行した小出版社(リトルプレス)のこと。この本は面白く、全く興味のなかった詩の世界に足を引っ張り込まれることになる。
詩とは教科書にあるもの。太郎と次郎が眠り屋根に雪が降り積もるとか、いきなり、冬よ僕に来い、なんて叫び出す。正直芝居っぽくて共感できなかった。その後目にした詩も、言葉をこねくり回したり、妙に感傷的だったり、自意識強すぎと感じたり。それなら短歌や俳句でいいやん、それか散文を書けばと思ったものだ(完全な主観です…)。
世にわずかしか残存していないボン書店の詩集は美しい活字が一字一字丁寧に組まれ、配列、行間、余白のバランスにうっとりする。読むというより活字を一文字ずつ追い、活字の配列を頭にたたき込む要領で、意味が分からずとも詩を吸収する楽しみを覚えた。ボン書店に限らず戦前から終戦直後の詩集はよくつくられている。良い詩集とは繰り返し手に取りたくなるたたずまいを持つ創作物だと思う。
僕はいったんほれると深く掘るタイプ。北園克衛、山中散生、阪本越郎、田中令三、海外ではマイヤー、リルケ、コクトーなどの詩人と詩の知識を今、蓄積していて、新しい読書の鉱脈を見つけた歓(よろこ)びの中にある。
全12回のダイホンブンでは自分なりの本の買い方を紹介してきた。好きな作家やジャンルはたくさんあるが、半年前には詩集を買うことなんて予想だにしていなかった。「本の世界には多くの鉱脈があり、それは地中でつながっている」と誰かが書いていた記憶がある。鉱脈を発見する楽しさがあり、つながる歓びがある。この感覚さえ身に付けていれば、死ぬまで暇つぶしに困らないと思う。