
おおいた戦後50年ョ
大分合同新聞創刊110周年を記念して出版された「おおいた戦後50年」には、その年の県内の主な出来事が記録されている。国や世界の大きな歴史が語られる昨今、大分にも語られていない事象が数多く眠っている。
そんな大上段に構えておきながら、私の語りたい歴史は戦後50年間大分合同新聞紙上で時々目にした「ョ」である。いきなり何を言っているのか、だろう。「8時だョ!全員集合」の「ョ」といえば分かっていただけるだろうか。これが新聞の見出しに多用されていたのだ。実例を挙げてみよう。
1966(昭和41)年「がっかりするなョ」、67(同42)年「頼んだわョ」、69(同44)年「けんかもしますョ」、70(同45)年「生イモ食べないョ」、71(同46)年「趣味と実益の『竹工芸』ョ」「校長先生ってこわくないョ」、72(同47)年「下町情緒が好きョ」、74(同49)年「手ぬるいョ国鉄さん」、76(同51)年「ひどいョ病院」、77(同52)年「ガッツ石松に挑戦ョ」
大分合同新聞の全記事にあたったわけではないが、昭和40年代に多用されている。69(同44年)に放送開始された「全員集合」の影響があったのか。「ョ」の使用される範囲はとても広いが、基本、和み系ニュースに多い。取材相手の性別と年齢については、関係ないどころか、人間でなくてもいい。「生イモ―」と言ったのは猿である。中には、意外な大分人が使った例もある。57(同32)年、故郷朝地町に帰り、昔遊んだ淵の前を通った朝倉文夫が「水浴びした淵だョ」と言った見出しがある。
時代が下がると使用機会が少なくなる。私調べでは93(平成5)年のヤングコーナーにあった、恋人が欲しくて付き合ったけど「別れたいョ」の見出しが最新である。平成の記事を十分に追えてないので、これ以降もあるだろう。
今回コラムのタイトルにあえて「ョ」を入れてみた。これが令和初「ョ」を使った見出しとして記録されればうれしい。しかし、この「ョ」、いつからいつまで使われていたのか。「ョ」の歴史に詳しい方、教えてほしいョ。