
同行二人の大飛行
1927(昭和2)年、リンドバーグの大西洋単独無着陸横断飛行から3年。米国ロサンゼルスを飛び立ち、米欧亜三大陸横断飛行の快挙を果たし、日本のリンドバーグと呼ばれた「ある日本男児」がいる。石川県出身の東善作である。
東は、16(大正5)年飛行家を志し単身渡米。第1次世界大戦では、米国の陸軍航空隊に志願し飛行技術を磨いている(戦後日本国籍人としてはただ一人米軍から軍人恩給をもらっていた!)。
除隊後、国際ライセンスを取得し、先の偉業を果たすのだが、戦後人形峠で日本初のウラン鉱を発見し会社を起こすなど、規格外の男であった。
そんな彼の生涯をつづった「ある日本男児とアメリカ」は当然面白いのだが、ある大分人が随所に登場してくる。西国東郡田原村(現在の杵築市)出身の飛行家後藤正志である。
東の飛行機仲間で、初めに大陸飛行を企画し挑戦した人物である。年は東より三つ下で、陽気なアイデアマンだったというが、彼も飛行家を夢見て渡米。朝から晩まで、庭の草取りや水まきなどのガーデンワークに従事し、ためたお金で、国際飛行士の資格を取得している。
計画から1年半。29(昭和4)年7月2日、後藤は愛機「凌風号」に搭乗し、東に途中まで見送られ、大陸飛行に旅立つ。
それから間もなく、ソルトレークシティを通過後音信が途絶える。嵐に見舞われた「凌風号」はロッキー山脈に激突し、機体は粉砕し、後藤は即死というニュースが東のもとに舞い込む。
この事故は米国邦人社会に衝撃をもって伝えられ、墜落現場にはユタ州日本人会による「大分縣人後藤正志之碑」が建立されている。
翌年、東は後藤の遺志を継ぎ、1万8千キロ、70日間の大飛行を成し遂げる。東は決行前夜、妻を遠ざけ、自作の「同行二人」という守護札を抱いて過ごした。二人とはもちろん、東と亡くなった後藤のことである。
東は後藤の魂と飛び、二人で夢をかなえたのである。